インストできねぇ



「嘘デレ!」、コムロード通販で届いたけどインスト失敗。体験版は問題なかったから、ひょっとするとプロテクトの誤爆かも。実は春先にHDDクラッシュさせてから一時しのぎのつもりで古いノートを代用してたんだけど、復旧面倒くさくてそのまま年末迎えてしまったのであった。やっすいノートのやっっっすいドライブだからなぁ…


とりあえずバナーキャンペーンが今日までなので、体験版だけの判断でとまりを選んでみる(選んだキャラのボイスが貰える)。体験版で、ぶつぶつ言いつつも主人公をフォローしてくれるとまりが可愛かったんだ。そっけないけど本当は主人公のことを大切に想っている証、だといいな。


僕はM男としてはビギナーなので、はっきり味方だと信じられる相手じゃないと、安心して堕ちれないといいましょうか。罵られたときに、「こいつ本当に俺のこと嫌いなんじゃないの…」とか頭をよぎってしまうと、ちょっと駄目っぽい。そこを妄想だけで自己完結できるようになると上級者? まあMの世界は入門したばっかりなのでよく判らん。あと光奈は別の意味で敷居たけぇよ。

嘘デレ!

嘘デレ!

嘘デレ!



前回『シスターまじっく』でめでたくマゾプレイの扉を開いたのりさんは、この分野の更なる開拓を目指すために、またもや脳内彼女の新作に手を出すことにしたのであった。駄目ちんぽを罵倒されつつ、こんなプレイで射精しちゃうなんてとんでもない変態ですね、今日はクリスマスイヴだというのにこんな性癖抱えちゃってどうするんですか? とか、くすくす笑われたい。このやうに人類は進化するのでせう(そして衰退するのでせう)


ヒロインにはすべて秘密が設定してあって、その嘘を暴いてゆく、みたいなコンセプトらしい。しかし体験版やった感じだと主人公が鈍いだけかもしれない。コメディとしては充分面白かった。かの箱男(女)みたいなのも出てくるが、関連性は不明。つうか、「箱男」はずいぶん前に読んだけど正直難しくてよく判んなかったし。

映画 ONE PIECE「STRONG WORLD」

ONE PIECEぴあ (ぴあMOOK)

ONE PIECEぴあ (ぴあMOOK)



ONE PIECE」のアニメ版はほとんど観たことなかったんだけど(ワンピファンってそういう人多いよね)、なんか今回は尾田栄一郎総指揮だとかで広報も気合入ってて、ルフィがメンズノンノの表紙を飾ったり、僕も冷静に考えたらゴミみたいな上記ムックとか買ってしまったり、明らかに例年とは違う空気が流れてるように感じる。しかもコミックス0巻が先着150万人に貰えるときたもんだ。やばい、それは欲しい反則だ。


しかし150万冊ってどうなんだ? 多いのか? 少ないのか? 地元ムービックスのサイト情報によると三日分14日の回までは特典も確実に確保してるらしい。けど今日初回を見るつもりで8時半ぐらいにノコノコでかけたら、すでに三回目まで満席完売で、夕方の回の隅っこの席をなんとか確保という有様だった。すでに明日の回も昼までの席は残り僅かみたいな状況なので、予約なしで日曜日行く人は早い時間に並ばないと最悪入れないかも。0巻効果恐るべし。でもコミックス150万冊って常識的に考えたら、最終的には欲しい人全てに行き渡りそうな数なんだけどな…。



んで内容。
ナミが可愛かった。ナミがコロコロ髪形変えて特におさげのナミがとても可愛かった。今回ナミは原作の鬱憤を晴らすかのような見事なまでののヒロインっぷりで、濡れ場ではバストとヒップが存分に強調されるわ、仕舞いにゃ寝起きワイシャツ姿で歩き回るわ、たいへんエロ可愛く描けてた。さらにロビンの方まで眼鏡&ポニーテールとか、なにそのイメチェン。なにそのニット姿。素晴らしい。


逆にストーリーは正直弱い。0話だとロジャーや白ひげに並ぶ前時代の伝説的海賊って感じだった“金獅子”シキが、魅力の薄いショボい悪役で終わってしまった。泣かせ所のナミの立ち位置もアーロン編の二番煎じみたいな感じだし、島の住民とかのサブプロットも薄いし、中盤の尺が短すぎて話を盛り上げ切れなかったと思う。シキの二十年越しの執念とか、あるいはシキの支配に対する島民の二十年間分の想いとか、そういう物語の動機部分は、もっとちゃんと描いて欲しかった。動機の弱いストーリーは推進力も弱いのだ。


ただまぁ今回、各キャラの見せ場などは多く、男陣もそれぞれかっこいい。島の動物(つーか怪獣)達のバトルロイヤルも迫力があって思いのほか楽しめた。アクションシーン中心のファンサービス的な作品として捉えれば満足度は高いかな。

社会人とは社会に都合よく調教された便所である


与神ひよたんからのボイスレターが欲しかったのでblog更新してみました。
メーカーからしてみたら詐欺同然ですね!



えー、近況としてはですね、「町ぐるみの罠」が良作便所ゲーでした。前作ラストの超展開でユーザーを唖然とさせた奈那子たんも、今作(のオマケ)では晴れてボテ腹便所の仲間入りで大変満足したのですが、世間ではこの手のゲームがもう出せなくなるということで大騒ぎみたいですね。なんでこの素晴らしいアートが判んないんですかね、もう世の中バカばっかりです。皆殺しのメロディが切り裂きジャックを呼んでます。ああもう、ブっとばして逆らいたい!


自主規制がどういう形になるかは判りませんが、女性への暴力が問題だというのであれば、まよねーず。氏の「庶務部厚生課性処理係」みたいに、女性たちが誇りと責任感を持って便所という仕事を全うしているというシチュはどうでしょう?


庶務部厚生課性処理係 (DOコミックス)

庶務部厚生課性処理係 (DOコミックス)


僕は門倉紗江ちゃん一押し!




というか最近は仕事でささくれ気味です。僕の職場は社会保障の点では結構しっかりしてて、鬱病とかで一ヶ月とかの病休(しかも年に2〜3回とか)とってもほぼノーリスクという有難い会社だったりします。そしてそういう会社に必ずといってよいほどいるのが権利を主張して義(ry


もちろん僕は鬱病の存在自体は疑っていませんし、気の毒だなぁとも思ってますが、仕事のストレスで鬱病になった責任を会社に負わせるというのはいかがなものかと。まぁ、たしかに便所係みたいな仕事だとは思いますが、嫌ならやめて転職する自由が誰にでもあるわけですよ。そんなに嫌ならいっそ会社をやめることこそが唯一にして根本的な解決法なのではないのかと。というか、お前が病休取るたびに周りの人間がどれだけ迷(ry


続かない。

爆笑


18 名前:名無しさん@九周年[age] 投稿日:2009/04/29(水) 02:45:11 ID:+CPEbH7q0
地デジカに対抗すべく生み出されたアナロ熊
http://up2.viploader.net/pic/src/viploader995626.jpg

アナロ熊公式ホームページ
http://www12.atpages.jp/analoguma/



46 名前:名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 03:12:58 id:yRAh24bW0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6885074
初音ミクアナロ熊のうた【オリジナル】‐ニコニコ動画(ββ)
(音楽,@BGM推奨,卑屈P,初音ミク,VOCALOID,アナロ熊,ミクオリジナル曲,地デジカ,地デジカ→sm6885498)





平和だなー

“そら”だけがみていた

Kanon ~Standard Edition~

Kanon ~Standard Edition~


http://d.hatena.ne.jp/simula/20090125/p1

先のhachimasaさんの記事を僕はsimulaさんのところで知ったんだけど、そこでcrow_henmiさんがこういうコメントつけてるのね。

 ところで質問なのですが、奇跡の観測者/媒介者として相沢祐一が必須である、ということを述べたkanon関係の過去論はあったでしょうか。奇跡は祐一とヒロインの関係性の中において確認されていくものであり、祐一なくして奇跡は観測されないし、ヒロインに媒介されない、というイメージがあるので、そのへんが気に掛かっていたのですが。


これ読んで、媒介者はともかくとして観測者という表現が気になった。観測者が必須っていうのは、観測者の観測行為自体が観測結果に影響を与えていて、奇跡を相沢祐一が観測したのではなく、相沢祐一が観測したから奇跡が起きたのである、みたいな逆転のイメージなのだろうか。言ってみれば宇宙の成り立ちを人間原理で説明するかのように。ちなみにむかし、葉鍵コテハンのくるくる少女氏が自サイトでそういう論を書いていた記憶がある(ググっても見つからなかったけど)。観測者(っていうかプレイヤー)が、量子化された『Kanon』世界を収縮していくことで奇跡が起きるのだ、みたいな。ぶっちゃけ『水月』のゲームデザインだね。まあ主人公の一人称で語られることの多いギャルゲーにおいて、主人公が世界の中心であるかのようなイメージをプレイヤーが持ったとしても驚くことではないと思う。


なんにせよ『Kanon』を観測者という点から論じるのは面白い試みだと思う。もっとも僕が興味深く思うのは、観測者=視点装置っていう意味でなので、crow_henmiさんの本来の趣旨からはずれると思うんだけど。先の記事で述べたように、奇跡という現象(あくまで「現象」であって本質とは関係ない)が観測されるための条件は、まず穴の開いた世界観と、なによりその穴を聖性と結びつけて解釈する人間である。奇跡というのはあくまで人間だけが観測するものなのだ。だから『Kanon』における奇跡という現象は、“視点装置”としての相沢祐一が必須であるということは言えるだろう。プレイヤーが相沢祐一の視点から物語の因果律(結果に対する原因と過程)を解釈したときのみに、逆説的に起こるはずのなかった奇跡は起きるのだ。


さて、ではここでプレイヤーの視点を、相沢祐一という視点装置から引っぺがしてみたらどうなるか? そしてもし世界観の穴を見渡す超越的な視点があったとしたら? 結果(ゴール/The 1000th summer)に対する原因(SUMMER)と過程(DREAM)。それらを大きな物語として俯瞰する“そら”からの視点の獲得によって、自己言及的に奇跡を解体した作品こそが『AIR』だったのではないかと僕は思うのだ。


AIR ~Standard Edition~

AIR ~Standard Edition~

夢。
夢を見ている。
長い長い夢の中で、ずっと何かを捜している。
それは一体、何だったろう。
(〜『Kanon』)


AIR』におけるDREAM編というのは、たぶん『Kanon』における一つ一つのシナリオと同じ位置づけだったのだと思う。物語で起こる不思議な現象(『Kanon』でいうところの奇跡)が、「羽」によって説明付けされるのは、たぶん偶然ではなく、前作『Kanon』を念頭に置いた上での意図的な表現であったのではないか。(物語として『Kanon』と『AIR』が物語としてリンクしてるっていう意味ではないよ、念のため)


DREAM編だけを見る限り、プレイヤーは国崎往人の視線を通して物語を体験し、そこで起こる不思議な現象は往人とヒロインの関係性の中において確認されていくもの、のようにも思える。そこまでは『Kanon』と同じ構造だ。だが、たとえばこちらの論で言われているようにDREAM編においてプレイヤーの“視点装置”として機能しているのは、実は往人ではなく往人(に連なる人形使いの一族)に受け継がれてきた人形だと考えたほうが筋が通る。国崎往人というキャラクターのビジュアルが、たとえば相沢祐一などと比較して遥かに明確なことにも説明が付く。


とはいってもDREAM編だけを見る限り、国崎往人≒人形≒プレイヤーの視点であり、間に人形を介在させることは、ほとんどのプレイヤーにとって特に意味を見出せるものではないだろう。しかしこの視点の関係は、AIR編において視点装置が人形から“そら”に移行することで大きく変化する。プレイヤーと国崎往人の視点は大きく乖離し、プレイヤーにとって国崎往人は物語を構成するパーツのひとつに過ぎなくなる。と同時にこの作品における“国崎往人”という存在が、1000の夏を過ごした人形使いたちの抽象化であることをもプレイヤーに気付かせたのではないかと思う。つまり“そら”とは物語を高みから見渡させるための俯瞰の視点装置なのだ。


だから観鈴のゴールに人形使いたちは立ち会わない。それを奇蹟と呼ぶ人間など必要としない。観鈴の幸せな思い出も、人形使いたちの残してきた足跡も、それらすべての軌跡を高みへと運んでいくのは“そら”の役目なのだ。