最果てのイマ

最果てのイマ フルボイス版

最果てのイマ フルボイス版


最果てのイマ(フルボイス版)おわた。いやー、これインストしてプレイし始めたの軽く一年以上前なんだけど、途中までがあまりにも長い&意味不明で長いこと投げっぱなしになってたんだ。むしろ、よくクリアできたよね。偉いぞ俺。まぁ、個別ルート中は三回ぐらい投げたし(実話)、賛否両論あるであろう作品構造なんかはともかくとしても、戦争編以降は読んでて普通に面白かった。このゲーム実はSFだったんですね、なんて素敵な想像力! (大人気のなさともいうよ☆)
多方面からのウンチクが過剰なまでに練りこまれてて知的好奇心を随分と刺激していただきました。特にイマジナリー・ネットはアイデアとして純粋に面白いし、そこから派生するネット住人のこぼれ話みたいなのもいちいち面白かった。なんかもう、前半と後半で別のゲームみたいだよね、これ。


ところでかの有名ロボットであるドラえもんとドラみちゃんがなぜ兄妹かというと、二人に同じひとつのオイル(だか何だか)が使われてるからなんだ。ところがこのオイル、使用される際に混合物が沈殿していて、オイルの濃い部分がドラみちゃんに、オイルのうっっっっすい部分がドラえもんに使われたせいで、二人のせ……、いや、その、個性に差が出たんだってさ。そんなんプロの仕事としてありえねーだろと思ったけど、でもみんなドラえもんが大好きなんだから結果的にこれで良かったのか、どうなんだ!!!!!!?(超遠まわしな発言)


えー、ヒロイン的には〜………特に好みという娘は〜…………………………


あー、でもよこさんワールドは嫌いじゃないかな。なんかジワジワくる。あとあずさが異様に可愛い。いや、正直メスとしては見れないけど(むしろウザいけど)、それもすべて可愛さゆえ。病院と間違えるから美容院行かずに床屋行く発言とか、もう。発言自体もアレなのだけど、それでも可能な限り気を使って髪を整えてくれてるらしい誰とも知らぬ床屋のおっさん(?)に感謝を捧げる優しい世界が好き。ところでこのシーン、もう一回見ようと思ったけどどこで見たのか全然わかんねぇ。
以下バレで。




とりあえず、配列は放棄の方向で。


つーか、普通に記憶してる範囲でも矛盾多すぎだし。伊勢崎宗太とか森で念入りにぷち殺されてたじゃん! あと同じと思われる記憶がまったく違うシーンとして記述されてたり。まぁ、これだけ豪快な矛盾群が単なるミスのわけないから、むしろ意図的な齟齬なんだろうけど。記述された過去の記憶は基本的に信用できない(からこそ彼女はイマと名乗ってるわけだし)なら、すべては曖昧に“起こった・起こりえた出来事”として理解しておけばいいのかなぁ、いいことにしよう。みたいな(優しさよりも根気の問題)。ただ笛子と姉の入れ替わりトリックは把握しときたい感じがする。このネタは読後にネット感想回ってみるまで気づかなかった。姉妹と伊勢崎との関係もさっぱり理解してないわ。


“聖域”について。


まぁ、最初は超個人的な空間のことかなって思ってたのね。C†Cの群青学園で他人と断絶したような人間がいたけど、ああいうの。忍は社会から隔離されたような場所での仲間たちとの時間を大切にする一方で、忍の管理者権限能力は群青の学生みたいな社会的引きこもり人間をも強制的に侵略してしまう。そこに忍の葛藤があったわけ。でもそうじゃないんだな。ああいう断絶した(ある意味で完成した)個人は、むしろ自我拡大症候群とかいってフリークス扱いされてるっぽい。そういう内側に向かった自滅的な個を、物語は“聖域”とは認めてないわけ。いや、それは個ですらないんだな、だって彼らは虚ろなんだから。


葉子のエピソードが端的なんだけど、人間が心を育むには絶対的に他者を必要とする。忍たちの“聖域”だって他人を侵略し、侵略されたから生まれたんであって、決して最初からあったわけじゃない。『おたくまっしぐら』の“聖地”アキバが、ネットワークでつながった異世界間での闘争によって、相対的に成り立っているのと同じだ。田中ロミオ作品は、いつも他者と、他者との闘争(それはコミュニケーションと言い換えられる)を必要とする。


イマジナリー・ネットによって生み出された彼(敵)が、なぜ人類を滅ぼすかといえば、彼が他者を知らないからに他ならない。他者を知らないから内側に向かって自滅していくほかないわけだ。それは人間がフリークス化していくメカニズムと構造的に同じである。人類が彼に放ったグレート・ワームの一撃は、彼にとって理解不能な他者性を持つ。つまりこの一撃自体が、次に彼が現れたときに彼を放散に向かわせるシステムの一部なのではないか? というのがイマたんの推論、かな。なかなか希望のあるラストでいい具合の読後感だった。