劇場版AIR(ネタバレ)


ということで劇場版『AIR』、最終日にギリギリ見にいけました。初回の開演間際に着いたのですが、ほぼ満席に近い状態でしたね。たぶんリピーターの方が多かったんじゃないかなと思うんですが、スタッフロールが流れる段になっても誰も席を立つこともなく、皆が映画の余韻を噛み締めているようでした。原作派の評判が最悪とはいえ、流石は敬虔な信者の多い『AIR』ですね。Piaキャロ劇場版とは大違いです。


でまぁ、事前に散々聞かされていたことですが、劇場版が出崎版AIRであることには僕も全く異論がありません。こりゃあ決してAIRではないけれど、一本の映画としてはアリかなと思いました。最初にあれ?っと思ったのは往人が観鈴ちんに自分のことを語るシーン。以下、うろ覚えなんで台詞とかは適当。(でもそんな感じの意味のことを言ってたはず)


往人「俺、人ゴミとか嫌いなんだ」
観鈴「人ゴミが嫌いなのに祭りはいいの?」
往人「ああ、なんていうか祭りは燃えるからな。みんな本気で俺の芸を見てくれる」
観鈴「往人さんは本気が好きなんだ」


往人(……だけど俺、本当は本気になんてなれてない。本気の振りをしているだけだ……) ←出崎止め絵


つまりですね、劇場版の往人さんは、本気で人と関わることが出来ない不完全燃焼の男として描かれているのです。これは原作『AIR』にはなかった視点ですね。これではまるで往人さんが、ボクシングに出会う前のやさぐれた矢吹丈みたいです。まぁ、出崎監督にしてみれば、目的もなく日銭を稼ぎつつ旅を続ける国崎往人という人間は、打ち込むことも見つけられずに「自分探し」とかの旅に浸るヒマな兄ちゃんにしか見えなかったんだろうなぁ。


とにかく、この「不完全燃焼の人間が、目的を見つけて完全燃焼する」という流れが劇場版『AIR』の主題というか軸ですね。


翼人である神奈は人を好きになると死んでしまいますが、その恋を止めることはできません。(ファイアー!)
観鈴ちんは人を好きになると(中略)止めることはできません。(写真も燃やして文字通りファイアー!)
病気に苦しむ観鈴を引き取ったことを後悔している晴子さんは、それでも母親になる決意をします。(ファイアー!)
柳也殿、屋敷に幽閉された神奈を大空に飛ばせるために壮絶な討ち死。行け、母親の元に!(ファイアー!)
ついでに観鈴パパは仕事があるので観鈴ちん捜索を打ち切ります。(燃えないゴミ)


もうラストのゴールのシーンとか、完全に「燃え尽きたぜ、真っ白にな」と化してますからね。正直、出崎監督と知ってれば、めちゃくちゃ判りやすい映画でした。


元々『AIR』というゲームは、信者にとってすら「何だかよく判らんけど凄いゲーム」であって、さっぱり判らない人間が判らないなりに常識的に解釈してみたらこうなった、ということでしょうね。名作とは言わないけど、まぁ、それなりにまともな映画でした。


欲を言えば、神奈や観鈴にとっての「呪い」、晴子観鈴の母娘にとっての「義理の親子関係」のように、往人が本気で人と関わることが出来ないでいることにも、それなりの理由を描けていれば、もう少し物語に説得力が出たと思います。まぁ、そんなエピソード原作には最初からないんだから(だって原作はそんな話じゃねーもん)、無茶といえば無茶なんですが。