4月25、27日の続き。

さて、ササキバラ・ゴウ氏は美少女ゲームを「選択肢によって、プレイヤーに『責任』を生じさせるジャンル」と定義するその一方で、ポルノメディアとしての美少女ゲームが無責任にプレイヤーのマッチョイズムを肯定してしまうという矛盾をも指摘する。つまりプレイヤーは、エロゲーの主人公の視線に感情移入している間はキャラクターレベルでのリアリティに「責任」を感じて反マッチョイズムに酔っ払い、その一方で、ゲームから離れたプレイヤーがプレイヤー自身の視線でゲーム世界を眺める時、ゲームのヒロインたちはただの攻略対象に成り下がり、マッチョイズムを肯定するための消費物でしかなくなってしまう。(ようするに、ゲームプレイ中にどれだけ「雪さんサイコー」「花梨愛してる!」とか純愛に浸った所で、一歩ゲームから離れてしまえば、雪さんも花梨も数ある萌えキャラの一人に過ぎないでしょ? というもっともな指摘である)


つまりササキバラ氏が指摘しているのは、美少女ゲームの持つ「反マッチョイズム(女の子への責任)」と「マッチョイズム(女の子への無責任)」という矛盾した二面性である。


どうやらこの指摘こそが、東氏にとっての天啓であったらしい。東氏は、本書の論考「萌えの手前、不能性にとどまること───『AIR』について」の中で、このような美少女ゲームの持つ矛盾を支えているのは、オタクたちの「解離」(多重人格性)という本質であり、さらにその解離を強引に埋める「ダメの論理」(俺たちはダメ人間なんだから矛盾してたって仕方ねーじゃん、という論理)という自己欺瞞であると言う。


※ 余談
(僕は最初、東氏はこの美少女ゲームの二面性を、『動物化するポストモダン』の中で語った、「データベースの水準で生じるシステムへの欲望」(大きな非物語)と「シミュラークルの水準で生じるドラマへの欲求」(小さな物語)と結び付けようとしているのかと思ったのだが、これは全くの無関係らしい。論考のP168で『動ポモ』を例に出し「解離」という表現を用いているのは、あくまででオタク達のメンタリティを説明するためのもののようだ。ちょっと紛らわしい…)


そしてこの美少女ゲームの抱える矛盾が臨界点を迎え、ついにオタクたちの自己欺瞞を解体してしまったのがAIRであり、それ以降の美少女ゲームはマッチョイズムと反マッチョイズムに二極化してゆくという結論であるらしい。(ちなみにこの「AIRはオタクたちの自己欺瞞を解体してしまった」という批評は、ある意味で動ポモの『YU-NO』批評なみにアクロバティックで面白かったです。まぁ、肯定するか否定するかと言えば、もちろん僕は完全否定ですが。話が逸れるので、これの詳細についてはまた明日か明後日にでも)


ではここで、25日に引用した美少女ゲームパーフェクトマップに目を向けてみよう。左上から右下へと続く「文学的想像力」は、27日に書いたとおり反マッチョイズムの流れである。この流れの作品で描かれるのは、マッチョになれない男の子たち(これを更科氏は「零落したマッチョイズム」と呼ぶ)の繊細な「内面」である。


それに対して、右上から左下へと続く「物語消費」は、つまりマッチョイズムの流れなのである。これは反マッチョイズムの「内面」に対して「表層」、つまり設定と言い換えても良いかもしれない。佐藤氏はこの流れを「二次創作」と明言しているし、同時に現在のオタクカルチャーの姿でもあると言う。