『美少女ゲームの臨界点』 (『AIR』のネタバレを含みます)


東氏の『AIR』批評について書こうと思っていたのだけれど、冷静に考えるとあんまり書くことなかったりする。前回書いたように、マッチョであり反マッチョでもある美少女ゲームの矛盾は、『AIR』という作品で臨界点を迎えたのだと東氏は指摘する。氏の主張はわりとシンプルだ。


まずプレイヤーは『AIR』の第一部で、主人公の国崎往人に感情移入している状態で観鈴の救済に失敗し、反マッチョ的な挫折を味わう。しかし、それはあくまでゲーム世界の国崎往人が味わう挫折であり、プレイヤー自身は決して傷つくことがない。このように通常の美少女ゲームでは、プレイヤーをキャラクター・レベルでの視線とプレイヤー・レベルでの視線に解離させながら曖昧にし、責任と無責任を都合よく共存させてしまう。


ところが『AIR』の第三部は、プレイヤーの視線を国崎往人から強引に引き剥がし、その欺瞞を解体してしまう。キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルを完全に切断されてしまったプレイヤーは、プレイヤー自身の視線で物語(観鈴の悲劇)を無力なままに傍観させられ、プレイヤー・レベルでの挫折を味わうことになる。つまり『AIR』は、キャラクターとプレイヤーの二つのレベルを繋ぐ自己欺瞞を告発し、それを解体してしまったというわけだ。


以下、それに対する僕の意見だが、まず作品論として大いに気に入らない。作品のテーマが「父の不在」だという所からして気に入らないし、特に第一部を「国崎往人が父になろうとして失敗する作品」とか要約してしまう捉え方が気に入らない。だいたい麻枝氏本人が「ぎりぎりのバトンパスで繋いでいく」物語構造だって言ってんのに、そんなスーパーネガティブな解釈があるか! インタビューの意味ねーじゃん!


……と憤ったのだけれど、作品レベルで反論してもおそらく無駄なのだろう。東氏は論考の中で次のように述べる。


筆者自身、ここまで論じてきたような『AIR』の批評性を、麻枝准をはじめとするKeyのスタッフが意識していたとは考えていないし、また、ユーザーの多くが上記のような読解を行ったとも考えていない。(中略)

にもかかわらず、筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかく何か特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである。


ず、ずっるーい! そんなこと言ったら何だって言えちゃうじゃん!


いや、その理屈で自分の批評の正当性を主張するのは明らかにおかしい。作品が、作者の意図を越えた批評を生みだすことは確かにあるけれど、その批評が作品、或いはそのジャンルへの評価として妥当であるかは全くの別問題のはずだ。