『美少女ゲームの臨界点』


前にも書いたが、この本の中核になっているのは、エロゲーの抱え込む「選択肢を選ぶ事によって生じるヒロインへの責任」と、「ポルノメディアとしてのヒロインへの無責任」の矛盾である。東氏はこの矛盾を、美少女ゲームというメディアがプレイヤーの解離を構造的に強化してしまうためだと分析している。だが、どう考えてもここがおかしい。むしろ美少女ゲームは、プレイヤーと虚構の解離を埋める働きをしていると考えたらどうだろうか?


東氏の主張は、美少女ゲームの流れを雫から眺めているから捩れているのだ。僕の実感から言って、初期のエロゲーは良くも悪くも単なるポルノメディア───現実と完膚なきまでに解離した都合の良い虚構でしかなかったと思う。そこには女の子への責任感とか、反家父長制的な男の子の内面とか、そんなものは始めから一切なかったはずだ。


ところが『同級生』の大ヒットによって事情が変わってくる。プレイ中、自由に女の子達を追いかけ、最終的に自分の好きな娘とEDを迎えることのできるこのゲームは、読み手にゲーム世界での選択権を委ねる事によって、虚構の中にプレイヤーの主体の一部を取り込んでしまった。つまりプレイ中の間だけ、ポルノメディアと現実の解離を埋める働きをしているのである。


この『同級生』は、発売元のエルフ曰く「ナンパゲー」であり、一回のプレイで10人ぐらいの同時攻略が可能なゲームであったが、後日発売された「同級生2」ではこの辺の同時攻略性がずっとシビアになり、二股、三股を良しとしない「純愛ゲー」としての側面が強くなってくる。これはポルノメディアとしては明らかに退化のはずだが、この事に対してのプレイヤーの反発は僕の知る限りでほとんどなかった。『同級生』、続けて『ときめきメモリアル』に群がったプレイヤー達の多くは、「ナンパ」(ポルノ)ではなくまさに「純愛」こそを望んでいたからである。つまりエロゲーはプレイヤーの主体の一部とともに、プレイヤーの現実的な倫理(たとえば反マッチョイズム)をも取り込んでいってしまったのだ。


東氏は美少女ゲームを、

「反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な欲望を密輸入する構造」


と評している。だがむしろ、「超家父長制的な欲望の中に、堂々と反家父長制的な想像力を取り込んでいった構造」こそがエロゲーの本質であると言えまいか。


言うまでもないがこの主張は、ゲームというメディアの役割を東氏とは逆に捉えた上で、東氏の主張をそのまま裏返しただけである。だがほぼ同じ事を言いながらも、捩れて絡まった糸が解けたように、既存のエロゲー論に則した主張になっているはずだ。僕自身この事に気付いた瞬間、「なんでこんなありがちなエロゲー論が今まで読めなかったんだ…」と唖然としたぐらいだ。


その上で、もう一度美少女ゲームパーフェクトマップを見直してみると、このマッピングの意図が明確に見えてくる。右下の流れとは、マッチョイズムの中に反マッチョイズムを次々と取り込んでいった流れ。つまりゲーム的リアリズムとは、まんがやアニメ的な世界観をベースにしながら、「主人公がこんなにもてるはずがない」とか、「人間はもっと黒い面を抱えた生き物である」とか、「奇蹟なんてご都合主義を俺は認めねぇ!」とか、ようはリアル志向のことだったのである。虚構を虚構として割り切れないこの態度はSFに近い。(稲葉振一郎氏曰く「大人気ない」というやつである)


これに対する反動が左下の流れである。マップでは『AIR』が中央に位置しているが、僕はこの流れを決定付けたのは『AIR』に前後して発売された『Phantom』と『月姫』ではないかと思う。たとえば「遅刻しそうな朝、パンを咥えた女の子と正面衝突」とか、「雨あられと撃ちまくりながら弾切れを起こさない魔法のガバメントとか、まんが・アニメ的なお約束やご都合主義を、悪びれることなく取り込んでいったエンタメ志向こそが左下の流れなのだろう。そういや開始10分でエロシーンとか、ハーレムエンド上等とか、萌エロが台頭してきたのもこの頃からだったような…。(僕の記憶にある萌エロのハシリは『PureHeart』辺り)


うん、この観点で見るのが一番すっきりするな。文学的想像力を含んでいても、お約束やご都合主義(つまりそれが物語消費か)で味付けしてあれば左下に組み込まれてる感じだし、なんかメチャクチャ単純なマップに見えてきた。