なぜエロゲーオタクは嫌われるか


ちょっと前にbmp_69さんとかでも話題になってて今更という感じですが、真性のエロゲオタとしてはやはり反応しておこうと。んで、このコラム、エロゲオタとしてはどうしても反論しておかなきゃならないコラムではあるのだけれど、実は結論自体には賛成できる。
このコラムの主軸は、


この問題は2つに分離できることだ。つまり、「エロゲーは悪か」という問題と、「悪(と決めたもの)を勝手に排斥していいか」という問題の2つである。私は前者に対してはYes、後者に対してはNoと答える。つまり、むやみなバッシング自体には反対だが、「エロゲーは悪くない」という意見にも反対する。


という部分であると考えてよいだろう。まぁ、なんでエロゲーが18禁かといえば、それはエロゲーが本質的に不健全であるからに他ならなくて、そういう意味で「エロゲーは悪である」ということ自体は、エロゲーマー全員が自覚しておかなければならない部分である。ここを判ってない奴が、声高に「鬼畜ゲームは厳しく規制するべきである!」とかほざいた挙句、実は自分は『はじめてのおるすばん』が大好きだったりとか、トホホなオチがついたりするわけだ。(※ のりさんは鬼畜もロリコンも大好きです)


最初の部分だけ読んだら、「おお、なかなか良いこと言うじゃないか」と思ってしまったコラムなのだけど、読み進めてみると、エロゲーオタは正常な人間の感情を持てないとか、自我の発達が不足していて他人の痛みを感じる能力の欠如しているとか、ようするに「エロゲーオタクは異常」の一点張りである。つまりエロゲーマーがエロゲー(不健全・悪)を愛好するのは、人間的に未熟(不健全・悪)だからである」という結論ですな。おいおい…。


こういう偏見に反論できるように、エロゲーオタクもバタイユとか読んできちんと理論武装しておくべきなのかもしれない。いや、僕もちゃんと読んだわけじゃなくて、さわりしか知らないんだけどさ。

バタイユは、人間を理性(大人)的な部分と、欲望(子供)的な部分に分けて、理性で抑えきれない欲望を「悪」と呼び、その「悪」にこそ芸術性が宿ると考えた。言っておくが、別にバタイユは理性を否定しているわけではない。むしろ欲望(子供)が理性(大人)に勝ち続けることはできないという。ただ、理性によって欲望を忘れ去ってしまうこと、ケガレとして払い落としてしまうことを批判しているのである。たぶん。


実際問題として、僕の中には不健全で破壊的な欲望が確かにある。相手を殴りたい、支配したい、殺したい。そういう子供じみた狂気は、程度の差はあれ、誰にでも少なからずあるものだと思う。それを、汚いものに蓋をするように規制してしまうことが、本当に犯罪の抑止に繋がるかと言えば、そんなことはないだろう。犯罪を抑えることができるのは、欲望を抑える理性であり、他人を思いやる豊かな人間性である。まぁ、悪書を禁じる前に良書を読めって事だ。


もちろん「悪」だけが芸術であるかのような言い方をしてしまうと色々と反論もあると思うのだけれど、事実として、この世には悪徳を描いてるとしか言いようのない不健全な芸術性が確かにあるという事をまず認めて欲しいと思う。その「悪」を非倫理的だと言って規制することはできるとしても、その「悪」を美しいと思ってしまう人間を否定することはできないのだから。