“そら”だけがみていた

Kanon ~Standard Edition~

Kanon ~Standard Edition~


http://d.hatena.ne.jp/simula/20090125/p1

先のhachimasaさんの記事を僕はsimulaさんのところで知ったんだけど、そこでcrow_henmiさんがこういうコメントつけてるのね。

 ところで質問なのですが、奇跡の観測者/媒介者として相沢祐一が必須である、ということを述べたkanon関係の過去論はあったでしょうか。奇跡は祐一とヒロインの関係性の中において確認されていくものであり、祐一なくして奇跡は観測されないし、ヒロインに媒介されない、というイメージがあるので、そのへんが気に掛かっていたのですが。


これ読んで、媒介者はともかくとして観測者という表現が気になった。観測者が必須っていうのは、観測者の観測行為自体が観測結果に影響を与えていて、奇跡を相沢祐一が観測したのではなく、相沢祐一が観測したから奇跡が起きたのである、みたいな逆転のイメージなのだろうか。言ってみれば宇宙の成り立ちを人間原理で説明するかのように。ちなみにむかし、葉鍵コテハンのくるくる少女氏が自サイトでそういう論を書いていた記憶がある(ググっても見つからなかったけど)。観測者(っていうかプレイヤー)が、量子化された『Kanon』世界を収縮していくことで奇跡が起きるのだ、みたいな。ぶっちゃけ『水月』のゲームデザインだね。まあ主人公の一人称で語られることの多いギャルゲーにおいて、主人公が世界の中心であるかのようなイメージをプレイヤーが持ったとしても驚くことではないと思う。


なんにせよ『Kanon』を観測者という点から論じるのは面白い試みだと思う。もっとも僕が興味深く思うのは、観測者=視点装置っていう意味でなので、crow_henmiさんの本来の趣旨からはずれると思うんだけど。先の記事で述べたように、奇跡という現象(あくまで「現象」であって本質とは関係ない)が観測されるための条件は、まず穴の開いた世界観と、なによりその穴を聖性と結びつけて解釈する人間である。奇跡というのはあくまで人間だけが観測するものなのだ。だから『Kanon』における奇跡という現象は、“視点装置”としての相沢祐一が必須であるということは言えるだろう。プレイヤーが相沢祐一の視点から物語の因果律(結果に対する原因と過程)を解釈したときのみに、逆説的に起こるはずのなかった奇跡は起きるのだ。


さて、ではここでプレイヤーの視点を、相沢祐一という視点装置から引っぺがしてみたらどうなるか? そしてもし世界観の穴を見渡す超越的な視点があったとしたら? 結果(ゴール/The 1000th summer)に対する原因(SUMMER)と過程(DREAM)。それらを大きな物語として俯瞰する“そら”からの視点の獲得によって、自己言及的に奇跡を解体した作品こそが『AIR』だったのではないかと僕は思うのだ。


AIR ~Standard Edition~

AIR ~Standard Edition~

夢。
夢を見ている。
長い長い夢の中で、ずっと何かを捜している。
それは一体、何だったろう。
(〜『Kanon』)


AIR』におけるDREAM編というのは、たぶん『Kanon』における一つ一つのシナリオと同じ位置づけだったのだと思う。物語で起こる不思議な現象(『Kanon』でいうところの奇跡)が、「羽」によって説明付けされるのは、たぶん偶然ではなく、前作『Kanon』を念頭に置いた上での意図的な表現であったのではないか。(物語として『Kanon』と『AIR』が物語としてリンクしてるっていう意味ではないよ、念のため)


DREAM編だけを見る限り、プレイヤーは国崎往人の視線を通して物語を体験し、そこで起こる不思議な現象は往人とヒロインの関係性の中において確認されていくもの、のようにも思える。そこまでは『Kanon』と同じ構造だ。だが、たとえばこちらの論で言われているようにDREAM編においてプレイヤーの“視点装置”として機能しているのは、実は往人ではなく往人(に連なる人形使いの一族)に受け継がれてきた人形だと考えたほうが筋が通る。国崎往人というキャラクターのビジュアルが、たとえば相沢祐一などと比較して遥かに明確なことにも説明が付く。


とはいってもDREAM編だけを見る限り、国崎往人≒人形≒プレイヤーの視点であり、間に人形を介在させることは、ほとんどのプレイヤーにとって特に意味を見出せるものではないだろう。しかしこの視点の関係は、AIR編において視点装置が人形から“そら”に移行することで大きく変化する。プレイヤーと国崎往人の視点は大きく乖離し、プレイヤーにとって国崎往人は物語を構成するパーツのひとつに過ぎなくなる。と同時にこの作品における“国崎往人”という存在が、1000の夏を過ごした人形使いたちの抽象化であることをもプレイヤーに気付かせたのではないかと思う。つまり“そら”とは物語を高みから見渡させるための俯瞰の視点装置なのだ。


だから観鈴のゴールに人形使いたちは立ち会わない。それを奇蹟と呼ぶ人間など必要としない。観鈴の幸せな思い出も、人形使いたちの残してきた足跡も、それらすべての軌跡を高みへと運んでいくのは“そら”の役目なのだ。