祭りのあとで

寝取られシチュを嫌う人の言い分としてよく聞くのが、「寝取られて何が嬉しいの?」というもっともな質問だ。僕は何度か寝取られゲームをプレイした経験があるし、そのシチュエーションを楽しむ感覚というのも多少は判る。まぁ、多少判る程度で偉そうに語るのもなんだけど、僕の感覚として言えるのは、寝取られて嬉しい奴などいないということだ。

だって、大好きなあの娘が他の男に取られちゃうんですよ?
他の男の手でギシギシあんあんヤラれちゃってるわけですよ?
たとえそれが過去の話だろうと、死ぬほど悔しいに決まってるわっ!

寝取られゲームというのは、そういう悔しさこそを演出しているのだ。ホラー映画やジェットコースターで仮初のスリルを体験したがるように、金払ってあえて悔しい思いをしたいわけである。だってちょっと考えてみてくださいよ。高校時代からプラトニックな関係を続けてきた婚約者を突如として寝取られるとか、絶対服従の催眠術をかけられたあげく、村越様とあの娘のSEXの撮影係をやらされるとか、そんなの誰にでもできる体験じゃありませんよ? 好きな娘を奪われて悔しいという気持ちは、アンチだろうと寝取られ好きだろうと共通で、ただその悔しいという気持ちを楽しめるか楽しめないかが両者を分けるのである。

でさ、「処女厨は現実の女を知らないから、ヒロインが非処女だったぐらいで騒いでる」とか言ってる奴アホかと。 いや、エロゲーを知らない一般人が話を聞きかじってそう思うのなら仕方ないけど、少なからずエロゲーというものを知っている奴がこういうこと言ってると、こいつ感受性が足りてないんじゃないかと思ってしまう(まぁ、たぶん煽ってるだけだと思うけど)。

現実で好きになった娘が処女じゃないと知ったとしても、今の僕は特に哀しんだりしない。そりゃそうだ、僕の年で処女の娘に出会う機会なんてそうはない。だがそれは、すでにその可能性を了解しているから耐えられるんであって、けして悔しくないわけじゃない。中高生の時の僕が、好きな娘がラブホから出てくるところを目撃してしまったとしたら、それは辛くて悔しくて仕方ないに決まってる。幼馴染や学生や義妹といった設定。他の男の影が見えてくるまでの話の流れ・状況。そういったものを無視すんなよ!

これは自慢だけど、僕はエロゲーに対して常に本気だ。

恋愛ゲームをやってるときは日本一のフェミニストにだって成りきれるし、鬼畜ゲームをやってるときは悪魔も裸足で逃げ出す外道男に成りきれる。寝取られゲームのヘタレ主人公だって同様だ。『魔夜中ハ我ノ物』でヒロインを悪魔に輪姦させるのはメチャクチャ愉しいことだけど、『螺旋回廊2』で遊び半分にヒロイン拉致って薬漬けにしているクズどもは皆殺しにしてやりたいと思う。僕はゲームや小説・漫画・ドラマ、一人称視点や三人称視点に関わらず、作中の誰かに感情移入している間なら、自分の経験や主義主張などある程度は棚上げできる(まぁ、唐突に主人公の性格が変わったり、脈絡なく矛盾したことを言い出したりされると難しくなるけど)。偉そうなことを言わせてもらえば、それは僕の数少ない才能だと思ってる。『Fate』のHFは勿論のこと、ULBWを勧善懲悪の視点で見てしまう奴にはかなり引いてしまうけれど、時代劇を見て「あの悪代官にだって言い分はある。罪を犯したからといって殺してしまうのは可哀想だ」とか現実の論理で批判しだす奴は、フィクションを楽しむ才能のない可哀想な奴だ。(どっちがフィクションにとってより害悪かといえば、それは間違いなく後者の方だ)

いつも主人公の隣にいた幼馴染が、他の男とデートしている所を目撃してしまって「悔しい」とか何とかいうわけだ。もしこのシーンでプレイヤーに悔しさが生じないのであれば、それは描き手の表現力と演出力が驚くほど下手なのか、さもなきゃ読み手の感受性が絶望的に足りていないかのどちらかなのではないのだろうか。

フィクションなんて、しょせんは嘘だ。ただの演出だ。でも例えその場限りの話だとしても、あえてその嘘を信じてやるのがフィクションを楽しむということではないのか。

で、長々と書いて何が言いたいかといえば、ヒロインが非処女だったことに対してあまりにも冷静な奴よりは、不意打ちの寝取られに大騒ぎしてCD叩き割っちゃう奴の方が、少なくとも共感はできると思うのだな。まぁ、時に鬱陶しいのは断然に後者なんだけど。


あー、「嘘を信じてやる」と書いたけど、「捜査の結果、この密室に抜け道はありません」と言っておいて、あとから抜け道が発見されてしまうような嘘は断固として認めない。「どれだけ念入りに捜査しても、抜け道を見逃す可能性はある」などという擁護意見は、確かに言ってることは論理的に間違ってないけど、それは最初の言葉を信用した読み手に対しての裏切り行為だ。その一方で、「実は部屋を捜査した捜査官が犯人だった」というような読み手の裏をかく論理なら許せる。叙述トリックの類も大歓迎だ。

読み手がフィクションに触れるとき、そこには描き手との間にある種の契約が発生する。描き手と読み手の間には暗黙の了解があって、(こんなことを言うと笑われるかもしれないけど)それは信頼関係と同じだと思う。読み手は多少の嘘には目をつぶってでも描き手の言葉を信じてやるべきだし、描き手は読み手の寄せてくる信頼を軽く扱うべきではない。僕は青臭いことを言っているだろうか? でも契約というのは大なり小なりそういうものだと思う。僕にとって「寝取られ」は叙述トリックのような驚きがあるけれど、不幸にして「寝取られ」が契約の不履行以外の何物でもなかった人は多いのだろう。

凄く曖昧で漠然としている上に、思いっきり主観に頼った線引きになるけれど、読み手を楽しませようとしての意外性なら、なるべく肯定してやりたいと思う。でもそこに意外性を出すことしか考えてないようなオナニっぷりしか感じられないともうダメだ。嫌悪感は隠せない。ちなみに今年ダントツの勘違い野郎は『Remember11』だったな。アレは酷かった。金返せと思った。本屋でビジュアルファンブックの「論理的な推理、ロマンティックな解釈」(うろ覚え)とかいう煽り文を見て、終いにゃメドローアで消滅させるぞと思った。次いで『CLANNAD』の藤林姉妹。一生根に持つからな!