引き続き、それは舞い散る桜のように

それは舞い散る桜のように DVD-ROM版

それは舞い散る桜のように DVD-ROM版

それ散るは……あまりネタバレ気にするようなゲームじゃないよね。むしろどんな話か知ってからプレイした方が良いような気すらする。


それは舞い散る桜のように(バレ)


「ゲームなど、所詮は虚構にすぎない」と冷めた視線でプレイする人がいる。これがもっと極端になると、「この世の全ての価値は虚構にすぎない」と気付いてしまう人がいる。

舞い散る桜を見て、美しいと感動する気持ち。
誰かに恋をして、その人の傍にいたいと思う心。

そういったものは、全て人間の欺瞞にすぎないと悟ってしまう人たちがいる。例えば作中にも出てくる、「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」(芥川竜之介)などのように、人間の抱く「価値そのもの」の実在を否定してしまう思想。これがニーチェ哲学などに見受けられるニヒリズム虚無主義)だ。

はっきり言ってしまえば、それは事実である。人間が、どれだけ本気で舞い散る桜に恋焦がれたとしても、それはいつか勘違いだったことに気付き、忘れ去ってしまう一時の魔法にすぎない。物語後半において、ヒロインたちは舞人のことを忘れてしまう。だがこれは、最初に“あった” ものが、“なくなってしまった” のではない。

本当は、 恋なんて “最初からなかった” という事実を突き付けられてしまうだけだ。

街の人間たちは、舞人や桜香といった「桜の丘の子供たち」に恋をする。だが「桜の丘の子供たち」は、人間たちが桜を美しいと思う心など、所詮は一時の勘違いに過ぎないことを知り尽くしているのだ。裏切られ、忘れ去られ、その度に繰り返し絶望を味わってきた「桜の丘の子供たち」は、人間たちの「恋愛」という価値そのものの存在を否定しているのである。そのトラウマをあえて詩的に表現するのならば、「桜の丘の呪縛」とでも言えば良いだろうか(まぁ、無意味な言葉遊びに過ぎないけど)。ニヒリズムは覆しようのない事実だからこそ、当たり前のように『それ散る』という物語を悲劇の舞台として演出してしまうのである。その辺の感覚が理解できなければ、この物語は受け入れられまい。

くどいようだが、人間の抱く全ての価値は虚構に過ぎない。それは事実なのである。事実だからこそシナリオ氏は、物語を一度は「悲劇」として終らせてしまう。終らせるしかなかったのだ。しかし、いったんは幕を閉じた物語に希望を込めてハッピーエンドを付け足す。「まだ追いかけるつもりですか?」という桜香の問いかけに対し、シナリオ氏は舞人にこう答えさせる。


「俺はただ、自分の周りにあるものが好きでいたかった。
自分の周りにいる人を好きでいたかった」

「俺自身を、好きでいてほしかった。ただそれだけなんだ」

散ってしまい、忘れ去られてしまった桜が、それでももう一度花を咲かせようとする論理。それこそがニヒリズムを受け入れ、そしてその上で克服する人間の強さなのだ。


「何ひとつとして美しいものはない、人間のみが美しいのである」 (ニーチェ

……っていうか、ニーチェなんて解説文しか読んだ事ないんですけど、意味合ってます?(おい)