『美少女ゲームの臨界点』


前回のマップ。まずこのマップで言うところの「文学」というのは、マッチョイズム(家父長制的な男性性)の否定にあるらしい。文学の流れが少女小説から始まっているのは、つまり男によって傷つけられるしかない女の子の内面を描いた、「黙って俺についてこい!」的な男性原理への反発が源流にあるわけだ。複雑なのは、この「傷つけられるしかない女の子の内面」を描いた少女漫画や少女小説に、マッチョイズムに馴染めない女々しい男の子たちが共感し始めたことである(書き写さなかったけど、左上の源流には少女小説とともに村上春樹が位置づけられている)。そして少女漫画や少女小説が衰退していくにつれ、担い手を求めた反マッチョイズムが美少女ゲームに絡め取られていったのだと分析しているらしい。


で、この反マッチョイズムが美少女ゲームの持つ「ゲーム的リアリズム」と結びついていった理由だけれど、僕はまずこの「ゲーム的リアリズム」というのが何を表しているかが最初よく判らなかった。単純に、ゲーム=選択肢が用意されていて自由度の高いもの、と言ってしまえば簡単なのだけれど、そのわりには選択肢が一切ない『鬼哭街』が右下の流れに位置付けられているし、だいたいこの流れの行き着く果てがファウスト系の小説(佐藤友哉とか)だったりするし。


読み進めていくと、東氏がこの結論に辿り着いたプロセスというのは、どうもササキバラ・ゴウ氏の美少女ゲーム論に天啓を受けた結果らしい。ササキバラ氏は美少女ゲームを、「選択肢によって、プレイヤーに『責任』を生じさせるジャンル」と定義する。つまり美少女ゲームとは、「ホワイトアルバムで理奈ちゃんと寝てしまうと、同時に由綺を傷つけてしまう」というような、女の子に対する加傷性をプレイヤーに自覚させる(或いは自覚させることに適した)ジャンルだというわけだ。だからこの「ゲーム的リアリズム」というのは、選択肢などによって、読み手に反マッチョイズムを体験させる(自覚させる)デザインを指していることになるか。


しかし実際問題、エロゲーのデザインの中には、可能な限り選択肢を排除していったものがたくさんある。その極北が『Fate』である。こういった選択肢のないゲームが受け入れられていく現状を、いったいどうやって説明するのか? ここで東氏はもう一つの流れを体系付けるわけである。以下続く。