『美少女ゲームの臨界点』


以前、東氏が『動物化するポストモダン』で言っていたのは、


「小さな物語」の深層にあった「大きな物語」(他者への共感)が凋落して、「大きな非物語」(データベース)になる。→オリジナルとコピーの区別(つまり引用するという意識)がなくなり、データベースによって裏打ちされたシミュラークルが増加する。→シミュラークルは「大きな物語」を必要としなくなり、ポストモダンの人間は深層を持たない表層的なドラマによって動物的に「小さな物語」への欲求を満たす。


ようするに、「大きな物語(他者への共感・イデオロギー)が必要なくなる」という部分が重要だったはず。しかしエロゲーにマッチョイズム(家父長制的イデオロギー)が横行しているのは、まぁ、東氏の指摘するとおり事実なわけで。つまり東氏自身のオタクの捉え方が動ポモの頃とは変わってきていて(※ 東氏に言わせれば「状況の方が変わった」という事でしょうけど)、この『美少女ゲームの臨界点』はそのフォローなのかなと思い始めた。その前提で改めて読み直してみると、言ってる事がだいぶ理解できるようになってきたし、僕がどこに違和感を感じていたのかもはっきりしてくる。


つまりこの本は、「オタクが動物的だった時期は確かにあったのだけれど、そういう一見クールな態度の裏で、実はオタクたちは自己欺瞞によってマッチョイズムを密輸入していた事がわかってきた」(P110〜111辺りの要約)、というのが趣旨なのだろう。で、そういうオタクたちの自己欺瞞が気に入らないと。「大きな物語」=マッチョイズム=父になる(東氏的には等価)の凋落は明らかなはずなのに、なんで今更「燃えゲー」なんだ、と。そうか、それでやけに『Fate』に突っかかったり、『CLANNAD』の共同体万歳みたいな保守性は評価できないとか言ってたのかな…(といっても那須きのこ氏は女々しい部類の作家だと思うけどなぁ)。


しかし仮にエロゲーから「マッチョイズム」というイデオロギーが消え去ったとしても、そこに残るのは「反マッチョイズム」というイデオロギー、或いは「特定のイデオロギーを支持しない」というイデオロギー(イーガンの「放浪者の軌跡」みたいな)であって、イデオロギーから生み出された「小さな物語」を通して「大きな物語」に触れようとする構造は、(たとえそれが虚構でありシニシズムに過ぎないとしても)変わらないように思う。


そもそも僕は、東氏の言う「動物的でデータベース的な作品」というものの具体像が判っていないのかもしれない。例えば東氏は大塚英志氏とのやりとり(2002.9.28)の中で、大塚氏の「(東氏は)主題とか構造みたいなものはまったく認めない」という指摘に対し、「物語性の回帰」「主題性の回帰」の現象は、僕の本のなかですでに分析されていると返答している。だけど主題性って普通はイデオロギーの事を指すんじゃないの? 東氏の言う大きな物語から遠く離れたポストモダン的精神が、にもかかわらず「小さな物語」を追い求める二重構造っていうのは、イデオロギー(主題性)から切り離された「小さな物語」は、読み手の動物的欲求を効率よく満たすための表層的なドラマに終始するという分析だと思っていたんだけど。でも東氏は主題性を否定しているわけではないらしい。


続けて東氏は『千と千尋の神隠し』を例にとり、骨組みしかない物語=民俗学的な説話構造の台頭と述べているが、別に民族的な説話だって、最初から骨組みしかなかったわけではない。例えば『桃太郎』は五行思想というイデオロギーから生み出された物語だ。これが後世に伝わっていくうちに、読み手に理解できなくなったイデオロギーが取り除かれてゆき、現代においては「骨組みしかない物語」「表層的なドラマ」でしかなくなってしまうわけだが、仮に現代的に『桃太郎』を再構築しようとすれば、そこには現代に即したイデオロギーを当てはめる必要があるだろう。


たとえば一つの作品があるとして、それをアニメ化することになったとする。その時、アニメ版のスタッフが原作に流れるイデオロギーを全く理解できなかった場合、取れる手段は二つあると思う。一つは原作のイデオロギーを完全に無視して、自分達に理解できるイデオロギーで物語を再構築するやり方。もう一つは、原作のイデオロギー的な部分は極力避けて、とにかく表層的な物語の骨組みだけを再現しようとするやり方。どちらが良いとは言わないけれど、後者の方がデータベース的だってのは何となく判る。しかしそういうイデオロギーを、僕は「主題性」と呼ぶのだと思っているのだけれど、東氏の言う「主題性」というのは明らかに意味が違っている事になる。どうも納得いかない…。



あと「父になれない男性の内面を描いた作品」だけを、「文学的想像力」とか「ビジネスに回収しきれない進化の方向性」とか、あまりにも神格化して扱うのはどうかと思います。っていうか知ってて触れないのか、本当に知らないのかは判りませんが、その方向性で進化したエロゲーの極地が「寝取られゲー」だと思うんですが。いや、あれは文学的だと僕も常々思っていたけどNE!(皮肉)