冥王と獣のダンス

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奇跡に絡めて引き続き『AIR』のことでも書くつもりだったんだけど、まずこちらの話を挟むことにした。つっても、実際の本を実家に置いてきてしまったのでほとんど記憶で書く上に、本編よりもあとがきに対する反応なんだけどね。いや本編もすごいお気に入りなんだけど、続編もなかなか出ないから上遠野浩平のなかでもマイナーな扱いになっちゃってるのが残念。


この物語には“奇蹟使い”と呼ばれる特殊能力者たちが出てくるんだけど、まずこの奇蹟の“蹟”の字に注目してもらいたい。通常使う“奇跡”ではなく、ちょっと難しいほうの字を使っているよね。あとがきでも“奇蹟”と“奇跡”を意図的に使い分けてるようなことを匂わせているんだけど、僕はこれ、初めて読んでから長いこと意味がわからなかった。ところがある日、他所のネット掲示板で「奇跡というのは“跡”の字から見ても判るように過去形だ」と言われて天啓のように理解できたんだ。


そう、“奇跡”は過去形なのだ。上遠野浩平が“奇跡”と使うとき、それはもうすでに起こってしまった出来事なのである。使用例としては、「この広い世界であなたと私が出逢えたのは奇跡だったのかも知れない」とか、「人類史にとってライト兄弟が空を飛ぶことに成功したのは奇跡である」とか。それがどれだけ起こるはずのないような出来事だろうと、またどんなに天文学的確立の上で実現した出来事だろうとも、実際に起こってしまった以上は認めるしかない。そういう出来事が“奇跡”である。


一方で上遠野浩平が“奇蹟”と使うとき、それはまだ“可能性”の段階に過ぎない。「もはや彼女の病は奇蹟を祈るしか方法がない」とか「全財産で馬券を買ったので奇蹟が起きれば借金を返せる」(※)とか。実際に実現可能性があるかどうかは問題ではない。というか可能性だけなら理屈上どんなことだろうと起こり得る(それは四月に降る雪のように)のだが、とりあえず通常は起こりえないと思われていることに“奇蹟”という言葉が使われる。

 ※ 一部撤回しました




ところでブギーポップシリーズにおける特殊能力者・MPLSたちは「人間の進化の可能性」と言わている。何のことはない、MPLS=奇蹟使い確定である(俺の中で)。MPLSたちの存在を認めるということは、つまりは人間がそのような存在に進化する可能性を認めるということである。だから「こんなふうに進化しちゃったら世界滅ぶわ!」というような“可能性”を“世界の敵”と定めて、最初からそんな可能性なかったことにしていくのがブギーポップの仕事であるわけだね。