ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター (上遠野浩平)

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奈須きのこを語ると、同時に上遠野浩平をも語りたくなるんだ!



可能性、もしくは想像力と我等が呼んでいるものの99%までは偽物で、本物は残る1%にすぎない
しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ


人間が想像できる事で、「実現の可能性が全くない」 と言い切れるものは一つもない。あくまで「可能性」という事ならば、一週間後には核戦争が起きているかもしれないし、3日後の僕が日本初代大統領に就任する可能性だってなくはない。今この瞬間に信じていた常識や物理法則が、次の瞬間に起こったパラダイムシフトによって崩れ去る可能性は確かにある。例えば明日の新聞で熱力学第二法則を覆す新理論が発表されれば永久機関すら夢じゃなくなるし、いつの日かモニターから女の子が飛び出してこないなんていったい誰に断言できる?

それらの可能性は限りなくゼロに近いだけで、決してゼロとは言い切れない!(力説)

だから想像力は可能性なんだけれど、もちろんほとんどの場合が、単なる妄想だったり勘違いだったり理想論だったりして99%偽物に過ぎないというわけだ。ところで、「それが同時に邪悪とも呼ばれる」というのはどういう事なんだろう。「それ」という指示代名詞が、いったい何を指しているのかハッキリしない。僕はこれ、未だに結論が出ないんだけれど、とりあえず二通りの解釈ができますね。まず、ここでいう「邪悪」が「イマジネーター」の事を指す場合。

「可能性、もしくは想像力と我等が呼んでいるものの99%までは偽物で、本物は残る1%にすぎない」

…という考え方が同時に邪悪とも呼ばれる


例えばスター(死語)を目指して上京しようとする青年を、両親は「なれっこないから諦めなさい」と引き止めようとする。この場合、常識論を振りかざす両親は、青年の可能性を奪う「邪悪」な存在であると言える。もう一パターン。

「可能性、もしくは想像力と我等が呼んでいるもの」

…それは同時に(社会的には)邪悪とも呼ばれる


青年の「スターになりたい」なんていう夢物語は、両親にとって「邪悪」以外のなにものでもない訳だ。実現する実現しないという結果は置いておくとして、とりあえず我等が「想像力、もしくは可能性と呼んでいるもの」は、社会的には「邪悪」というレッテルを貼られてしまうと言えなくもない。まぁ、「邪悪」なんてものは相対的にしか言えないのだから、二通りの解釈に大差はないんですけどね。

たぶん僕の両親は、僕がメイドロボの発売を心待ちにしているなんて知ったら泣くでしょう。僕と僕の両親の、どちらが邪悪な考え方なのかは難しい問題です。何時の世も、男のロマンは誰かを泣かせてしまうものなのだな(斜に構えながら)。