神樹の館 (体験版)バレ

神樹の館

神樹の館


前の日記で、「主人公自身が自分の行動や直感を論理的に説明できないことが多い」と書いたけど、つまりそれは真珠邸という場所そのものが、理性によって捉えられることを拒んでいるからかもしれない。

神性と理性は反発する。

例えば「もののけ姫」で、エボシ御前は「鍛冶場に女が踏み入ってはならない」などの古い約款を次々と無効化していく合理主義者だ。彼女はただ理性的に、「鍛冶場に神などいない」という当たり前のことを言ってのけただけだ。この理性こそが神殺しの刃なのである。文明という理性に照らされたとき、全ての神性はまつろわぬものとして「もののけ」へと零落し、ついには存在そのものを否定される。

よって神性とは、常に理性の及ばぬ場所にのみ存在できる。例えば山の奥深く。例えば人知れぬ館の中。例えば封印された扉の向こう、などなど。神秘とは、秘されているから神秘と呼ばれるのだ。

ところで斎と伊美の双子が、それぞれ感性と理性に偏っているのが面白い。つまり館にとって不浄なものである「理性」を伊美(忌み)が受け持つことによって、もう一方の斎が館にとって清浄なものである「感性」を受け持っているのだと思う。あえて偏らせることによって純化させているわけだな。

なんか獣の遠吠えが聞こえてたけど、あれこそが真珠邸の神性そのものなのだろう。