ツンデレ魔界プリンセス・アリサと孕ませ新婚生活! 〜全部出すまで抜いちゃダメ!ぜったい受精させなさいよね!〜

ツンデレ魔界プリンセス・アリサと孕ませ新婚生活!

ツンデレ魔界プリンセス・アリサと孕ませ新婚生活!


サブタイトル長ぇwwww
しかしタイトルに釣られたから非難できないwwwwwwwwww


低価格で和姦孕ませモノを多数出してるNornの新作。けっこう前からDL販売されてたんだけど、パケ絵がエロくてツボだったから、わざわざパッケージ版発売まで我慢してたのだ。ロリっ娘のボンテージ衣装は最高だなあ。


今回のシリーズは三姉妹のキャラごとに分割販売されていて、長女とかは正直興味ない僕としては、こういう売り方は大歓迎ですな。今作ヒロインの三女はテンプレート通りのツンデレ過剰幼馴染で、お世辞にも生きたキャラクターとは言えないんだけど、こういうキャラがツンツンしつつもエロシーンでは一転デレて、卑語連発しつつ中出しをねだるというのはやはりエロい。というか、キャラクターとして死んでるからこそオナペットとしては使いやすい、という一面があるのではなかろーか。どうでもいいね。


ただ今回はパケ絵の悪魔っ娘コスの割合が思ったほどじゃなかったのが残念だった。ナースとかメイドとか裸エプロンとか、毎回毎回いらないと思うんだけどなぁ…。あとエロシーンのテキストが、前にやった『とらぶる☆魔女試験』とかと比べると語彙が少なくて単調に感じた。この辺の小作品のライターはあんまり名前出ないし、報われない仕事してるなぁとは思うけど頑張ってほしい。僕らの夢のために!


まぁ、綾瀬はづき氏の絵好きだし(童顔の娘限定だけど)、次のも買う予定。安いし。3月27日は『オリオンハート』とかも出るし色々と楽しみ。

オリオンハート

オリオンハート


ところで昔『Fate』の批評で、「エロシーンで魔力補給とかお題目付けるのやめろ! 萎えるんじゃ!」とか書いたんだけど、魔力補給とか言いつつイチャイチャ中出しするのはセクハラっつーかなんつーか、それはそれで背徳感があってエロいよね。っていうようなことを『とらぶる☆魔女試験』やったとき思った。

俺たちに翼はない

俺たちに翼はない -Limited Edition-

俺たちに翼はない -Limited Edition-

いろいろあって、ふたたび千歳鷲介編。毎日少しずつ進めてるけど、ダレそうになるとイイ感じに展開が変わるので助かる。エロスケで人を選ぶって言われてたから、どうかなー?って思ってたけど、むしろ人を選ばない作風だよね。ただ「ギャルゲーかくあるべし」みたいな、期待とのギャップがやたらと叩かれるのがエロゲというかエロゲ市場の不自由なところだなぁ、って思った。


とか言いつつも、可愛い女の子といちゃラヴしたいぜー的な欲求が人一倍強いのりさんは日和子さんにワクテカするのであった。

邪魅の雫

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)


邪魅という妖怪は言い伝えられている情報が少なくて、京極夏彦御大の『邪魅の雫』においても京極堂による事細かな妖怪解説は結局されることがなかった。とはいえ、御大が邪魅という妖怪をどのように解釈していたかは、作品内容やインタビューでの受け答えから推測することができる。まず(ソース忘れたけど)インタビューから得た情報。石燕の『今昔画図続百鬼』によれば、邪魅は「魑魅の一種」とされ、本のなかでも魍魎の隣のページに配置されている。そのことを御大は重要視していたらしい。


それともうひとつ、京極堂シリーズにおけるタイトルの法則性である。御大によれば、このシリーズのタイトルは、妖怪の名前が“作品構造”であり、続く漢字一文字が“作品のテーマ”であるらしい(これまたソース忘れたけど)。つまり『魍魎の匣』で言えば、「魍魎」が作品構造で「匣」がテーマということになる。作品構造とは事件の構造だから、魍魎とは「複数の事件の境界線を曖昧にして、総体としてのブラックボックスを作り上げてしまう妖怪」と言って良いと思う。


この魍魎の横に邪魅が配置されていることを御大は重視していたわけだから、邪魅とは魍魎とシンメトリ、さもなきゃコントラストを描いた妖怪ということになる。その上で『邪魅の雫』の作品内容を踏まえてこの妖怪を解釈するのであれば、邪魅とは「ブラックボックス的な人間の心に邪な枠組みを与えて、次々と同じ構造を持った事件を生み出していく妖怪」だったのではないかなと僕は思う。


しかしこの『邪魅の雫』…。
このタイトルで、このテーマで、あの登場人物………。



ひょっとして御大はエロゲーマー?

今週のジャンプ、ベタだけどネウロに泣かされた。下位掲載で打ち切りに近いとはいえ、大団円に向けてちゃんと盛り上がってるのが良い。同じ下位掲載組のアイシルは、現状だと晩節を汚しまくってる感じなので読んでて別の意味で泣けてくる。
あとぬらりひょんの孫に妖怪・邪魅が出てきたんだけど、作中に出てくるような謂われって本当にあるんかいな? と思って一応ググってみた。一応ね。予想通り作品オリジナルの設定みたいだけど、水木しげるによれば(というかwikiによれば)「他人から恨みを買った人にだけとりつくとされている」ということらしいので、そこからの発想なのかな。

昨日の日記は一部撤回



昨日の日記、一日たって改めて読み直してみたら、ちょっとおかしなことを書いてしまった気がする。とりあえず馬券が当たるのが奇蹟とかは変だな…。過去形の“奇跡”に対して、“奇蹟”を未来の可能性とする考え方自体は間違ってないと思うので、少しニュアンスを訂正。


 ・ 奇蹟 ─── 未だ起こっていない、これから証明されるかもしれない可能性
 ・ 奇跡 ─── 実際に起こった、あるいは起こりえると既に証明されている可能性


という感じでどうだろう。“奇蹟”の場合は、ようするに夢物語だ。突拍子もない夢なんだけど、ひょっとしたら未来においては実現するかもしれない、そんな想像力、または可能性(ただし99%は偽物である〜「vsイマジネーター」)。一方で“奇跡”の場合は、人間が飛行機で空を飛ぶとか、既に誰も疑うことのなくなった事象。かって“奇蹟”と呼ばれた可能性が実現されたとき、そこから振り返って想う軌跡の追憶。こう定義すると、上遠野浩平的なイメージとの齟齬がなくなった気がするのだけれど。


んで、この前振りで何が言いたかったかというと、僕は『Kanon』って“奇蹟”の物語だと思うんだ。そして『AIR』は“奇跡”の物語。それは1000の夏の軌跡の物語と言い換えてもいい。


続く。(そういや自分の旧ログ読んでて、続くって言って続かなかったことの多さに軽く引いた)

冥王と獣のダンス

[rakuten:surugaya-a-too:10062165:detail]


奇跡に絡めて引き続き『AIR』のことでも書くつもりだったんだけど、まずこちらの話を挟むことにした。つっても、実際の本を実家に置いてきてしまったのでほとんど記憶で書く上に、本編よりもあとがきに対する反応なんだけどね。いや本編もすごいお気に入りなんだけど、続編もなかなか出ないから上遠野浩平のなかでもマイナーな扱いになっちゃってるのが残念。


この物語には“奇蹟使い”と呼ばれる特殊能力者たちが出てくるんだけど、まずこの奇蹟の“蹟”の字に注目してもらいたい。通常使う“奇跡”ではなく、ちょっと難しいほうの字を使っているよね。あとがきでも“奇蹟”と“奇跡”を意図的に使い分けてるようなことを匂わせているんだけど、僕はこれ、初めて読んでから長いこと意味がわからなかった。ところがある日、他所のネット掲示板で「奇跡というのは“跡”の字から見ても判るように過去形だ」と言われて天啓のように理解できたんだ。


そう、“奇跡”は過去形なのだ。上遠野浩平が“奇跡”と使うとき、それはもうすでに起こってしまった出来事なのである。使用例としては、「この広い世界であなたと私が出逢えたのは奇跡だったのかも知れない」とか、「人類史にとってライト兄弟が空を飛ぶことに成功したのは奇跡である」とか。それがどれだけ起こるはずのないような出来事だろうと、またどんなに天文学的確立の上で実現した出来事だろうとも、実際に起こってしまった以上は認めるしかない。そういう出来事が“奇跡”である。


一方で上遠野浩平が“奇蹟”と使うとき、それはまだ“可能性”の段階に過ぎない。「もはや彼女の病は奇蹟を祈るしか方法がない」とか「全財産で馬券を買ったので奇蹟が起きれば借金を返せる」(※)とか。実際に実現可能性があるかどうかは問題ではない。というか可能性だけなら理屈上どんなことだろうと起こり得る(それは四月に降る雪のように)のだが、とりあえず通常は起こりえないと思われていることに“奇蹟”という言葉が使われる。

 ※ 一部撤回しました




ところでブギーポップシリーズにおける特殊能力者・MPLSたちは「人間の進化の可能性」と言わている。何のことはない、MPLS=奇蹟使い確定である(俺の中で)。MPLSたちの存在を認めるということは、つまりは人間がそのような存在に進化する可能性を認めるということである。だから「こんなふうに進化しちゃったら世界滅ぶわ!」というような“可能性”を“世界の敵”と定めて、最初からそんな可能性なかったことにしていくのがブギーポップの仕事であるわけだね。

奇跡には根拠が必要だが、それが真実である必要はない(前置き)

Kanon ~Standard Edition~

Kanon ~Standard Edition~


http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090124/1232800260

さて、奇跡が起きる。ふしぎな出来事。
奇跡には根拠が必要だ。物語世界内のバックボーン。じつはこれこれこういう仕組みがあったので、奇跡(に見える現象)が起こったのです、という説明づけを読者は求める。(中略)


そこでなにを採用しようかってときに、手軽に聖性を付与しやすいアイテムとして樹木が選択肢となるんだろう。


ここでミソなのが、説明付けを求めてるのはあくまで“読者”の側だし、その際に“聖性を付与しやすいアイテム”として樹木を選んでるのもやっぱり“読者”の側でしかないということだ。もちろん選択肢は樹木以外にも無数にある。「奇跡とは雪に象徴されるものであるよ」 「いやいや天使の羽根こそ重要なファクターですよ」 なにを奇跡の根拠とするかは、それこそ各プレイヤーの自由である。何故こういったブレが起こるのか? そりゃあ、そもそも描き手側が奇跡の根拠など一切説明していないからなのだ。たぶん、意図的にね。


以前に『Kanon』のレビュー書いたときにも引用した涼元悠一氏へのインタビューから。

言ってみると『Kanon』って、世界観に穴が開いてるじゃないですか。どうやっても、どうしようもない穴が開いていると。 でも、その穴があまりにも美しい穴なんですよ。それで愕然としたんです。この穴は偶然に開いたものなのか、それとも人為的に開けたものなのか見分けがつかない。もし人為的に開けたのなら、この人たちは天才集団だと思ったわけです。


そもそも世界観を具体的に説明しちゃったら、どんな非現実的なことが起きようとそれは奇跡なんかじゃないわけ。あたかも治癒魔法がファンタジー世界だとごく一般的なわざに成り下がるように。『Kanon』世界において、実際にどのような仕組みによって「奇跡」(と思える現象)が起きてる(ように見える)のかは、オフィシャルで明かされることなど永久にないだろう。それは世界観と神秘的な調和を保った「美しい穴」を、わざわざ土砂で埋め立てる愚行なのだ。
続く。